なれなれしい手紙

読んだものの感想などを、ひとまず手紙形式でつけていく予定です。

木村紅美さんの『八月の息子』(文學界9月号)

 木村紅美さんの『八月の息子』(文學界9月号)を拝読させていただきました。

 

 木村さんの小説の文章というのは素晴らしい。生活の細部がにじみ出ていて、この人にとって生活する身体と小説を書く身体とは自然と結びついんているんだろうな、と羨ましさを掻き立てられる。雰囲気があるけれども安っぽくないし、過剰に偉ぶった文学的、というのではない親しみ易い文章で、読みながらとても気持ちが良かった。大学時代をひとつの輝かしい理想時代と見なすような小説って苦手なのですが、この小説の登場人物は現在がみな重過ぎて、過去に幾ばくかの慰めを求めたくなる気持ちも解ってしまう。そして、それが過去でしかない、あくまで現在とは非連続の、断線した時間だという物悲しさも、否応なく伝わってくる。けれども、その断線のきっかけとなった震災の書き方が、気になりました。白紙のカレンダーの部分を読みながら、この小説が本当に書きたかったのは、むしろ震災の部分なんじゃないかと思えてしまった。それで、小説が一気に色褪せてしまった。母の介護や、結婚して相手の家の事情も引き受けなければならない気だるさ、亡くなった息子の誕生日を未だに祝わねばならない強迫に近いさみしさなど、ここに描かれ尽くした家族の問題は実に重々しいテーマなのに、震災という題材の重さで全てが吹き飛んでしまった。ここの部分さえ無ければ、きっともっとすんなり読めたような気もするのですが。

 

 もしかすると、木村さんご本人も震災をどう小説の中で取り扱うべきか、難儀されているのでしょうか。取り扱う難しさは重々承知で、にもかかわらず小説の内側に繰り込まなければならない、そういう内心の要求に応える手段を模索されている途中なのでしょうか。たとえば邪推として、「文学は時に政治的でなければならない、そして小説家として正しく政治的であるとは左翼的であり、震災や放射能については反省を繰り込まねばならない」という発想に木村さんが至られた可能性は、無くは無いのかなあと仮に考えてみる(木村さんのツイッターでの発言を、こんな風に意地悪く読んでしまってすみません。でも、作中で何度か登場してくる腫瘍と、放射能とを私は結び付けずにはいられなかったのです。いわゆる「放射脳」というような批判、――以前、言葉と呼ぶにも相応しくないような、もうちょっとマシな物言いはないのかとげんなりする表現ですが、をしたいのではない。「放射脳」的な志向は、たとえば放射線で東京や東北に住む人間みんなが癌になる可能性だって、それは然程高くないとはいえ、完全に否定は出来ないのですから。それに、私は放射線の専門家ではないので、どちらとも言えません。その運動の熱気に、一部疑問を覚えるのも確かですが)。それだからといって小説の価値が下がるわけではなく、無論木村さん自身のお考えなど知るよしもないのですが(また、この小説になんとかして震災を登場させたくなる、それほどの真摯さでこの題材で向き合っている木村さんに、こんな酷いことを考えるのは恥知らずですね。ごめんなさい。これは、本当に邪推でしかないのです)、ただともかく、震災についての部分に妙に違和感を覚えるのです。

 

 泉さんはカレンダーを見たとき、なんでこんなリアクションを取ったんだろう。そのあとのタクシーのくだりでも地震が真っ先に意識に昇っていて、泉さんが地震について思うところはあるのだろうけれども、それは一体何なのだろう、と。ここでなんだか、作者と小説内の登場人物が悪い意味で繋がっているような心地になってしまいました。それまで、死んだ息子が生きている振りを続けるという不気味で悲しい夫婦のフィクションとして、とても気持ちよく読めていたのですが(台所の描写、皿洗い、料理をまとめてゴミ袋に捨ててくれとお父さんに言われる場面、どれも最高です。それからお灸の場面も良かった)、作者の顔がにょろっと見えてきてしまったみたいで、酔いから覚めてしまった。何気ない、素朴な文章でこちらを気持ちよく酔わせてくれる小説だっただけに、ここがやはり残念でした。

 

 地震を小説の中に書くのって難しいような気がします。私も下手くそな小説を書きますが、地震のことはやはりフィクション、ある程度の距離にある別の世界の出来事として書けず、どうしても自分に引きつけてしまう。それでいながら、やはり四年前に終わったことだという味気ない、冷たい態度も取ってしまう(私は東北から遠く離れた地方に住んでいて、。これによる個人的な被害を一切受けることはありませんでした)。木村さんのなかでは、地震の経験は今も生々しく息づいていて、やはり小説に書き込む他なかったのかもしれません。でも、私にはこの泉さんの反応は、どうしてもすんなりと受け入れることが出来なかったのです。このあたりの感情の説明が、もう少しだけあれば、素直に読み切れたのかもしれない。ただ、そもそも四年前の地震という出来事を書くこと自体、一筋縄ではいかない気がします。

 

 不思議なのは、私の場合、たとえば原爆の小説はすんなり面白く読めるのに、震災の小説は何故か面白くないのです。私は心の汚い人間なので、もしかするとそれはスペクタクルの問題なのかもしれないとは思いつつも(ひどいですね)、震災の小説を面白く書くには、まだまだ足りない何かがある、言い換えれば原爆をめぐる問題が、むろん現在も多くが解決していないなりに、それでもある程度解決の糸口をつけようとか、それに向かってのアクションを起こそうという段階に至っているのに対し、震災をめぐる問題は、未だその段階にも至っていないのかもしれません。それには時間の自然な経過を待つ他ないのか。私は運動や、あるいは思想に詳しいわけではないので、このあたりは何とも言い難いし、もちろん未来を予言するような真似は出来ません。ただ、木村さんが震災について書くならば、もっと面白いかたちで小説のなかに取り込めただろうという予感が、どうしてもしてしまいます。

 

 家族という連続した関係がもたらしてくる重いもの(泉の介護の問題、永井くんの結婚の問題)、過去から現在という時間の連続がもたらしてくる重いもの(泉から土谷さんへの思慕、震災、そして土谷さんの死を受け止められない両親)が交差し、重なり合う構図は本当に素敵でした。純粋に、小説として高く評価されるべき作品だと思います。それだけに、やはりこの地震の部分を、どうこれから扱っていくのか、もしくは一旦この地点から離れるのかどうかも含めて木村さんの今後を見てみたい。今後の木村さんの新作を楽しみにさせていただきたいと思います。今更ながら、前々から、木村紅美という字面の綺麗な筆名が気になっていたので、こうして作品を読む機会に恵まれてとても嬉しかったです。字面同様、文体も紅を一点だけぽつりと落とすような、何気なく美しいものが散りばめられた文体も、読んでいてとても気持ちよかった。また新作が読めればと思います。楽しみにしています。

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 感想は、ひとまず今のところは手紙形式で書こうと思っています(ひとまずは)。とはいえ、それによる誰かのレスポンスを期待しているわけではなく、手紙風だとしかつめらしくならずに済むかな、という甘い考えによります。

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